涙のわらじ
良寛さんが、甥の馬之助のわらじに落とした涙にはどんな理由があったのでしょうか。
師走のはじめですが、冬の早い越後の国上山は一面の雪におおわれています。
冬ごもりを余儀なくされた良寛さんは、終日知人から借りた万葉の歌集を味わっていました。
「ごめんくださいませ」
めったに女人の訪れることのないこの庵、しかもこの雪のなかで女の声がするのです。
不審に思いながら良寛さんは雨戸をあけて驚きました。
良寛さんに代って家を継いだ弟の由之の妻の安子さんが、沈んだ面持ちで立っています。
なにか深いわけがあるにちがいありません。良寛さんはやさしく応対していろりのそばへ通しました。
「お兄さま、長男の馬之助のことで思い余ってお願いに参りました。あの子は、近頃、夜遊びがひどく、主人やわたしがどんなに言い聞かせても少しも改心のよ
うすがありません。こんなことではあの子の将来が案じられます。やがては由緒ある名字带刀を許された累代名主の橘家も滅亡のほかはありません。このうえは
お兄さまのお力におすがりして、あの子を真人間にしていただく以外に方法がないのでございます。どうかよろしくお願いいたします」
訓戒や説教の無駄を誰よりもよく知っている良寛さんは、困ったことを頼まれたものだと思いましたが、安子さんの心中を察しますと断わることもできませんので、明日訪れることを約束したのです。
翌日、良寛さんが出雲崎の生家へ行きますと、昨日母親が自分のことで頼みに行ったことを知らない馬之助は、伯父さまの久しぶりの来訪に心をこめて歓待しました。
二人はいろりを囲んで盃を交わしながら、四方山話に時間の過ぎるのも忘れて談笑しました。安子と由之は、いつになったら馬之助に意見をしてくれるのだろう
と、二人の話題をたえず盗み聞きするのですが、さっぱり良寛さんの口から、それらしい言葉を聞きとることができません。そして二晩を過ごしたのです。
ところが三日目の昼過ぎ、良寛さんはもう山の庵へ帰るのだと言い出しました。安子さんは頼み甲斐のないお兄さまだと思いましたが、しかたなく、みんなで玄関へ送りました。良寛さんは玄関口へ腰をおろして、わらじの紐に手を触れながら言いました。
「馬之助、すまんが紐を結んでくれんかのう。年をとると、うつむくのが苦手でのう」
馬之助は上機嫌で「はい」と答えて、すぐ土間にとび下りました。そして良寛さんの足許にうずくまって紐を結びかけました。
そのとき、馬之助の首筋に一滴の水気が落ちたのです。馬之助はびっくりして仰向きますと、良寛さんの目には涙がいっぱいたたえられています。馬之助は良寛さんの気持ちに、はっと気づき、急に心を打ちのめされたような気がしました。
そして、先ほどからまた降りだした雪の中を、とぼとぼと庵に帰っていく良寛さんの後姿に向かって思わず合掌したのです。
この日以後、馬之助は放蕩をきっぱりやめて、学問と教養の道に専念するようになったのです。
この話は、村中に、次から次へと伝わりました。ある日、托鉢の途中の良寛さんに出会った村の古老が、感服しながら言いました。
「良寛さま、あなたが落とした一滴の涙で、馬之助さまがすっかり改心したそうじゃありませんか。さすがにあなたは生仏さまじゃ」
合掌して言うこの人の言葉に、良寛さんは面喰らって答えました。
「いやいや、わたしは馬之助のために涙を流したのではないよ。わたしも若いころ馬之助に似たことを犯しておきながら、頼まれたからといって偉そうに意見などしようとした。そんな自分をなさけなく思って涙をこぼしただけのことじゃ。なんと我執の強いわしじゃろうのう」
そう言うと、良寛さんは恥ずかしそうに立ち去りました。古老は改めて、そのうしろ姿を拝みました。
・・・
酒色に溺れることの非を、誰よりもよく知っていたのが馬之助です。
立場が違う他人が分かったふりをして意見しても、相手に響かないことを良寛さんは知っていました。
馬之助と共に語り、共に笑い、共に憂うことで気持ちを通わせ、馬之助を責めるまえに自分を責めたのです。
この良寛さんの真心が伝わり共感を呼び、馬之助の心に一大転機を与えたのです。
参考：良寛さん 植野明磧著 現代教養文庫
