百まで生きる妙法
死を他人事と考え、死から逃避しようとすころに、実は、私たちの迷妄の根源があるのだということを知らねばなりません。私たちには、この人間界の事
実を、そのまま素直に受け入れ、その事実に随順し生きる以外に、人間らしい生き方はないはずです。したがって、わたしたちは、やがて死滅する存在であるか
らこそ、お互いに、自分と他人を含めてのその命を、ひたすら大切にし、心から愛惜しつつ、かけがえのないその日々を充実させなければならないのです。
文政九年(一八二六)の初冬のある日、五合庵を訪れた一人の品のよい老人がいました。老人は隣り村のお金持ちで、ぜひ良寛さんに教えを受けたいと、とぼとぼと、この庵へやってきたのでした。
初対面の老人は、良寛さんに丁寧な挨拶をしてから、静かな口調で問いかけました。
「あなたさまは、深く悟りを開かれたお方だと聞いておりますので、長生きの方法をご存じでござりましょうなあ」
「いやあ、悟りとか迷いとか、そんなことはどうでもよいことじゃが、わしも古希まであと一年というところまで生きながらえてきた。長生きの秘訣というなら、多少は心得ているつもりじゃがのう」
それを聞いた老人は、目を輝かせながら、言葉をつづけました。
「おかげさまで、財産があり、子どもや孫どもにも恵まれておりますので、この上なんの欲もござりませんが、ただ一つ、自分の力ではどうにもならぬことがござります」
「ふーん、それはまた、どういうことじゃろうのう」
良寛さんは、にこにこしながら、尋ねました。
「実は、今、八十でござりますが、なんとしても、百まで生きたいと思うのでござります。どうぞ、その方法をお教えくださりませんか」
「それは、お易いご注文じゃ、ところでお前さんは、百まで生きたら、その時にまた、もう暫く生きたいと考えるに違いないと思うのじゃが、どうじゃろうかのう」
良寛さんは、相変らずにこにこしながら言いますと、老人は、恥ずかしそうに首を振りながら答えました。
「そ、そんなことはござりません。百までも生きる人は、滅多にないのですから、それ以上の欲は決して申しません」
「よかった、よかった。それならお前さんは、今、もう百まで生きたと思えばよいのじゃ。そう思って暮らせば、一日生きると、一日儲かったことになる。一年生きると、一年も得をしたことになる。こんなうまいことはないではないか。これが百まで生きる妙法というものじゃ」
このように答えた良寛さんは、大きく笑いました。
老人は、良寛さんの妙法を聞くと、急に心が明るくなる思いがしました。そして、今更のように自分の欲の深さを恥じると共に、それからの日々を大切にして本当に楽しく過ごすことが出来るようになったということです。
良寛さんは、ある時、こんな句を詠みました。
浜までは 海女も簑着る 時雨かな
浜辺の小屋で水着に着替えた海女たちは、すぐ海に潜って濡れてしまうのに水際まで簑を着て行くのは滑稽に見えますが、まもなく海に潜る身だからこそ、たとえ、つかの間でも、時雨に濡れまいとする海女たちの今を見つめる心境にうたれました。
百まで生きたいというような無意味な執着を捨てて、今日ただ今をじっくり味わい、その日常を大切にしなければ、真の幸福も生き甲斐も生まれてこないということを良寛さんが教えているのでありましょう。
参考：良寛さん 植野明磧著 現代教養文庫