三浦半島には京浜急行という私鉄が走っている。赤に白線の入った、あの電車だ。昭和の始めに湘南電鉄という名前で創業した。金沢八景で分かれて逗子海岸と三浦三崎に至る。上りは通勤電車だが、下りは潮の香りがするのんびりしたローカル線だ。三浦半島は山が多く小さなトンネルをいくつも通るが、時々見える海岸線の景色が美しい。この電車に乗ると東京から1時間足らずの場所に、こんなに豊かな自然が残っていたのかとほっとする。

その京浜急行が「なぎさ」という小冊子を毎月、無料で配っている。A5版で30ページくらいのしっかりした作りの情報誌だ。そこで、横須賀の樹木医師のことが紹介されていた。病気になった古木を再生させる人たちがいることは、以前テレビで見て知っていた。早速、その晩ホームページを開いてみた。樹木医師だけあって木でいっぱいのトップページだ。子供の頃から好きだった木と触れあえる仕事をするために、27年間勤めていた石油会社を辞めてこの仕事を始めた、と自己紹介に出ていた。未だに会社にしがみついている僕にとっては、うらやましい限りだ。

うちの庭には父が植えた木が何本かあった。その木々は春になると花が咲き、秋になると実をつけた。蜜柑の実を孫たちに収穫させたりして歓んでいた。その父が5年ほど前に亡くなった。その後、庭の木が次々と枯れだした。最近、門の近くにある、かなり古い、しだれ梅の木も、めっきり元気がなくなった。この梅は白梅と紅梅を咲き分ける珍しいものだと酒を飲むとよく自慢していた。この梅を枯らしたら父に申し訳ないと、木を見るたびに思っていた。そうだ、樹木医師に見てもらおうと思った。会ったこともない人にものを頼むのは不安があったが、思いきってメールを出してみた。症状を詳しく書いて診断のお願いをすると何日かして丁寧な承諾のメールをいただいた。6月26日に往診に来ていただけるという内容だった。

その日は、真夏のように暑かった。樹木医師は思ったより若い感じの人だった。弱っている梅の木の近くに行くと、葉っぱを触ったり、幹をさすったり、根の部分をほじったりして、まるで人間のお医者さんのように丁寧に診てくれた。所見は根に活力が無くなっているというものだった。植木店で売っているメネデールという活力剤を水で50倍にうすめて根の周りに撒いて様子を見てくれということだった。根の部分が固くなっていたら耕して腐葉土を混ぜこむ、主幹の根が腐っているときには乾かす、害虫がいたら退治するというようなアドバイスもしてくれた。額に大粒の汗をかいて熱心に話してくれた。樹木医師は、診断が終わると何も無かったかのように帰っていった。

医者に話を聞いてもらうだけで病気が直ってしまうように、診断を受けて精神的にかなり楽になった。これで、最悪の事態は避けられそうだ。僕は、その樹木医師に感謝したと同時にかっこいいと思った。まるで赤髭先生じゃないか。木を元気にするためには、見かえりも何も要求しない。弱った樹木を助けるために黙って仕事をしている。今の世の中に、こんな聖人のような人がいるのかと思った。父の安心した顔が脳裏に浮かんだ。