うた時計

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　新美南吉

二月のある日、野中のさびしい道を、十二、三の少年と、皮のかばんをかかえた三十四、五の男の人とが、同じ方へ歩いていった。

風がすこしもない暖かい日で、もう霜がとけて道はぬれていた。

かれ草にかげを落として遊んでいるからすが、ふたりのすがたにおどろいて土手を向こうに越えるとき、黒い背中がきらりと陽の光を反射するのであった。

「坊、ひとりでどこへいくんだ」

男の人が少年に話しかけた。

少年はポケットにつっこんでいた手を、そのまま二、三度前後にゆすり、人なつこいえみをうかべた。

「町だよ」

これは、へんにはずかしがったり、いやに人をおそれたりしない、すなおな子どもだなと、男の人は思ったようだった。そこでふたりは話しはじめた。

「坊、なんて名だ」

「れんていうんだ」

「れん？れん平か」

「ううん」

と少年は首をよこにふった。

「じゃ、れん一か」

「そうじゃないよ、おじさん。ただね、れんていうのさ」

「ふうん。どういう字書くんだ。連隊の連か」

「ちがう。てんをうって、一を書いて、ノを書いて、二つてんをうって…」

「むつかしいな。おじさんはあまりむつかしい字は知らんよ」

少年はそこで、地べたに木ぎれで「廉」と大きく書いてみせた。

「ふうん、むつかしい字だな、やっぱり」

ふたりはまた歩き出した。

「これね、おじさん、清廉潔白の廉って字だよ」

「なんだい、そのセイレンケッパクてのは」

「清廉潔白というのは、なんにもわるいことをしないので、神様の前へ出ても、巡査につかまっても平気だということだよ」

「ふうん、巡査につかまってもな」

「おじさん、連隊にいたの」

「うん、ずっと前にいたよ」

「召集こないの」

「ああ、よそへいっておったもんだから」

「どこ」

「連隊みたいなところだよ」

そういって男の人はにやりと笑った。

「おじさんのオーバのポケット大きいね」

「うん、そりゃおとなのオーバは大きいから、ポケツトも大きいさ」

「あったかい？」

「ポケットの中かい？そりゃあったかいよ。ぽこぽこだよ。こたつがはいっているようなんだ」

「ぼく、手を入れてもいい？」

「へんなことをいう小僧だな」

男の人は笑いだした。でも、こういう少年がいるものだ。近づきになると、あいてのからだにさわったり、ポケットに手を入れたりしないと、しょうちができぬという、ふうがわりな、人なつこい少年が。

「入れたっていいよ」

少年は、男の人の外套のポケットに手を入れた。

「なんだ、ちっともあったかくないね」

「はッは、そうかい」

「ぼくたちの先生のポケットは、もっとぬくいよ。朝ぼくたちは学校へいくとき、かわりばんこに先生のポケットに手を入れてゆくんだ。木山先生というのさ」

「そうかい」

「おじさんのポケット、なんだかかたい冷たいものがはいってるね。これ何？」

「なんだと思う」

「かねでできてるね……大きいね……何かねじみたいなもんがついてるね」

するとふいに、男の人のポケットから、美しい音楽が流れ出したので、ふたりはびっくりした。男の人はあわててポケットを上からおさえた。しかし音楽はとまらなかった。それから男の人はあたりをみまわして、少年のほかにはだれも人がいないことを知ると、ほっとしたようすであった。天国で小鳥が歌ってでもいるような美しい音楽は、まだつづいていた。

「おじさん、わかった、これ時計だろう」

「うん、オルゴールってやつさ。お前がねじをさわったもんだから、歌い出したんだよ」

「ぼく、この音楽、だいすきさ」

「そうかい、お前もこの音楽知ってるのかい」

「うん。おじさん、これ、ポケットから出してもいい？」

「出さなくってもいいよ」

すると音楽は終わってしまった。

「おじさん、もういっぺん鳴らしてもいい？」

「うん。だアれも聞いてやしないだろうな」

「どうしておじさん、そんなにきょろきょろしてるの」

「だって、だれか聞いていたら、おかしく思うだろう。おとながこんな子どものおもちゃを鳴らしていては」

「そうね」

そこで、また男の人のポケットが歌いはじめた。

ふたりはしばらくその音をききながら、だまって歩いた。

「おじさん、こんな物をいつも持って歩いてるの」

「うん。おかしいかい」

「おかしいなア」

「どうして」

「ぼくがよく遊びにゆく薬屋のおじさんの家にも、うた時計があるけどね、大事にして店のちんれつだなの中に入れてあるよ」

「なんだ、坊、あの薬屋へよく遊びにいくのか」

「うん、よくいくよ。ぼくの家のしんるいだもん。おじさんも知ってるの」

「うん……ちょっと、おじさんも知っている」

「あの薬屋のおじさんはね、そのうた時計をとても大事にしていてね。ぼくたち子どもになかなかさわらせてくれないよ……あれッ、またとまっちゃった。もういっぺん鳴らしてもいい？」

「きりがないじやないか」

「もういっぺんきり。ね、おじさんいいだろ、ね、ね。あ、鳴り出しちゃった」

「こいつ、じぶんで鳴らしといて、あんなこといってやがる。ずるいぞオ」

「ぼく、知らないよ。手がちょっとさわったら鳴り出したんだもん」

「あんなこといってやがる。そいで坊は、その薬屋へよくいくのか」

「うん、じき近くだからよくいくよ。ぼく、そのおじさんとなかよしなんだ。おじさんはね、日露戦争の勇士だよ。左のうでにたまのあとがあるんだ」

「ふうん」

「でも、日露戦争の話、なかなかきかしてくれないよ」

「そうかい」

「ロシヤがね、機関銃を使ったんだって」

「そうかい」

「おじさんはね、いっぺん死んじゃったんだって、そして気がついたらロシヤ軍のまん中にいたんで、それから夢中でにげ出したんだって」

「ふうん」

「でも、なッかなかその話きかしてくれないんだ。うた時計は、がいせんしてかえるときにね、大阪で買ってきたんだって」

「ふうん」

「でも、なッかなか、うた時計を鳴らしてくれないんだ。うた時計が鳴るとね、おじさんはさびしい顔をするよ」

「どうして？」

「おじさんはね、うた時計をきくとね、どういうわけか周作さんのことをおもい出すんだって」

「えッ……ふうん」

「周作って、おじさんの子どもなんだよ。不良少年になってね、学校がすむとどっかへいっちゃったって。もうずいぶん前のことだよ」

「その薬屋のおじさんは、その周作……とかいう息子のことをなんとかいってるかい」

「ばかなやつだって、いってるよ」

「そうかい。そうだなア、ばかだな、そんなやつは。あれ、もうとまったな。坊、もう一度だけ鳴らしてもいいよ」

「ほんと？……ああ、いい音だなア。ぼくの妹のアキコがね、とってもうた時計がすきでね、死ぬまえにもういっぺんあれをきかしてくれってないてぐずったのでね、薬屋のおじさんとこから借りてきてきかしてやったよ」

「……死んじゃったのかい」

「うん、おととしのお祭りの前にね。やぶの中のおじいさんのそばにお墓があるよ。

川原からおとうさんがこのくらいのまるい石を拾ってきて立ててある、それがアキコのお墓さ、まだ子どもだもんね。そいでね、命日にぼくがまた薬屋からうた時計をかりてきて、やぶの中で鳴らして、アキコにきかしてやったよ。やぶの中で鳴らすと、すずしいような声だよ」

「うん……」

ふたりは大きな池のはたに出た。向こう岸の近くに黒く二、三羽の水鳥がうかんでいるのがみえた。それをみると少年は、男の人のポケットから手をぬいて、両手をうちあわせながら歌った。

「ひイよめ、

ひよめ、

だんご、やァるに

くウぐウれッ」

少年の歌うのをきいて、男の人がいった。

「いまでも、その歌を歌うのかい」

「うん、おじさんも知っているの」

「おじさんも、子どものじぶん、そういって、ひよめにからかったものさ」

「おじさんも小さいとき、よくこの道をかよったの」

「うん、町の高等科へかよったもんさ」

「おじさん、またかえってくる？」

「うん……どうかわからん」

二つにわかれているところにきた。

「坊はどっちィいくんだ」

「こっち」

「そうか、じや、さいなら」

「さいなら」

少年はひとりになると、じぶんのポケットに手をつっこんで、ぴょこんぴょこんとはねながらいった。

「坊ゥ、ちょつと待てよォ」

遠くから男の人がよんだ。少年はけろんと立ちどまってそっちをみたが、男の人がしきりに手をふっているので、またもどっていった。

「ちょっとな、坊」

男の人は少年がそばにくると、すこしきまりのわるいような顔をしていった。

「実はな、坊、おじさんはゆうべその薬屋の家でとめてもらったのさ。ところが今朝出るときあわてたもんだから、まちがえて薬屋の時計を持ってきてしまったんだ」

「…………」

「坊、すまんけど、この時計とそれからこいつも（と外套の内かくしから小さい懐中時計をひっぱり出して）まちがえて持ってきちまったから、薬屋に返してくれないか。な、いいだろ」

「うん」

少年はうた時計と懐中時計を両手にうけとった。

「じゃ、薬屋のおじさんによろしくいってくれよ。さいなら」

「さいなら」

「坊、なんて名だつたっけ」

「清廉潔白の廉だよ」

「うん、それだ、坊はその清廉……なんだっけな」

「潔白だよ」

「うん、潔白、それでなくちゃいかんぞ。そういうりっぱな正直なおとなになれよ。じや、ほんとにさいなら」

「さいなら」

少年は両手に時計を持ったまま男の人を見送っていた。男の人はだんだん小さくなり、やがて稲積の向こうにみえなくなってしまった。少年はてくてくと歩き出した。歩きなから、何かふに落ちないものがあるように、ちょっと首をかしげた。まもなく少年のうしろから自転車が一だい追っかけてきた。

「あッ、薬屋のおじさん」

「おゥ、廉坊、お前か」

えりまきであごをうずめた、年よりのおじさんは自転車からおりた。そしてしばらくのあいだ咳のためものがいえなかった。その咳は、冬の夜、枯木のうれをならす風の音のように、ひゅうひゅういった。

「廉坊、お前は村から、ここまできたのか」

「うん」

「そいじゃ、いましがた村からだれか男の人が出てくるのと、いっしょにならなかったか」

「いっしょだったよ」

「あッ、そ、その時計、お前はどうして……」

老人は少年が手に持っているうた時計と懐中時計に眼をとめていった。

「その人がね、おじさんの家でまちがえて持ってきたから、返してくれっていったんだよ」

「返してくれろって？」

「うん」

「そうか、あのばかめが」

「あれ、だれなの、おじさん」

「あれか」

そういつて老人はまた長く咳入った。

「あれは、うちの周作だ」

「えッ、ほんと？」

「昨日、十何年ぶりで家へもどってきたんだ。長いあいだ悪いことばかりしてきたけれど、今度こそ改心してまじめに町の工場ではたらくことにしたから、といってきたんで、一晩とめてやったのさ。そしたら、今朝わしが知らんでいるあいだに、もうわるい手くせを出して、二つの時計をくすねて出かけやがった。あのごくどうめが」

「おじさん、そいでもね、まちがえて持ってきたんだってよ。ほんとにとってゆくつもりじゃなかったんだよ。ぼくにね、人間は清廉潔白でなくちゃいけないっていってたよ」

「そうかい。……そんなことをいっていったか」

少年は老人の手に二つの時計をわたした。うけとるとき老人の手はふるえて、うた時計のねじにふれた。すると時計はまた美しく歌い出した。

老人と、少年と、立てられた自転車が、広いかれ野の上にかげを落として、しばらく美しい音楽にきき入った。老人は眼になみだをうかべた。

少年は、老人から眼をそらして、さっきの男の人がかくれていった遠くの稲積の方をながめていた。

野のはてに白い雲がひとつ浮いていた。